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よみもの一覧
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2023.10.11NEW!江戸崎土岐氏の没落と不動院の荒廃
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2023.1.1あなたが光れば、世界が変わる?!
一隅とは、今、あなたがいる、その場所です。
あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、ベストを尽くして照らしてください。
あなたが光れば、あなたのお隣も光ります。町や社会が光ります。
小さな光が集まって、日本を、世界を、やがて地球を照らします。
不動院では、一隅を照らす運動の実践によって一人ひとりが心豊かな人間になり、平和で明るい世の中を共に築いていこうという社会啓発運動を行っています。 -
2022.11.2不動院の大檀那 -摂津源氏の名門を受け継いだ江戸崎土岐氏-
寺院には、「檀那(だんな)」や「大檀那(おおだんな)」と呼ばれる経済的な支援や、それ以上の支援をおこなう外護者(げごしゃ)がおり、寺院を創建する際に費用を負担した者を「ご開基様」と呼びます。これに対し寺院や宗派を開いた僧侶を「ご開山様」と呼びます。
不動院の場合は、最初に慈覚大師円仁(じかくだいし・えんにん)が開いたと伝えられていることから、ご開山様は慈覚大師円仁とされるのですが、恐れ多くもあり、少し控えめに宣伝されてきたようです。
文明年間の幸誉法印(こうよ・ほういん)は、元々あったお寺を復興させたということで、中興のご開山様となり、こちらは記録も残っていますので、よく書物に引用されています。
では、経済的な支援者は、誰だったのでしょうか?
これについては、最初の時も、中興の時も、記録がなく、よく分からないのです。
不動院に残る記録に「両界曼荼羅裏書写(りょうかいまんだら・うらがき・うつし)」がありますが、これに靏翁静久(五世)の時に、大檀那として土岐大膳大夫源治英(とき・だいぜんのたゆう・はるふさ)が、元亀三年(1572)八月三日に高野山清順春得に十貫文を寄付して両界曼荼羅図を求め、江戸崎不動院に寄進したといいます。
土岐治英は、当時の江戸崎城主です。治英の父である治頼(はるより)は、美濃国(みののくに。今の岐阜県南部)の土岐宗家の出身で、土岐頼芸(よりのり)の実弟です。
不動院の大檀那について、記録として分かっているのは、この土岐治英が最初です。
静久の代には、やはり土岐治英が大檀那となり、不動院に一四間半(26.39m)×七間半(13.65m)、一〇八坪(360.22㎡)を超える巨大なお堂を移築しています。ちょうどこの頃、江戸崎城主の治英が、斉藤利政(道三)に美濃を追放された土岐頼芸にかわり土岐宗家を継いだとされており、様々な事業を行っています。
このように土岐治英は、江戸崎土岐氏の祈願寺(きがんでら)として、また信太庄下条(しだのしょう・しもじょう)の民を統治するため、不動院を取り立て、格別の待遇を与えたと考えられているのです。 -
2022.8.10不動院と天文の絹衣相論 -慈覚大師円仁とのご縁-
不動院所蔵の江戸時代の勧化(かんげ。募金)帳類の前書きにある不動院のはじまりの物語や、ご本尊のご由緒は、慈覚大師円仁(じかくだいし・えんにん)とご縁を結んでいます。
これも、多くの名僧・高僧と縁を結ぶ一般的な縁起物語の一つと見られるかもしれませんが、天文二四年(1555)に不動院が比叡山延暦寺(ひえいざん・えんりゃくじ)に訴え出た「絹衣相論(きぬごろもそうろん)」において、不動院のために朝廷への取次ぎなどを行った比叡山東塔の月蔵坊(げつぞうぼう)は、当時、比叡山最高の学僧が居たとされ、かつ慈覚大師円仁との深いご由緒を有していました。
それより一二年前の天文一二年(1542)に、「山寺」として知られる陸奥国宝珠山立石寺(むつのくに・ほうじゅさん・りっしゃくじ)が、比叡山延暦寺根本中堂より「不滅の法灯(ふめつのほうとう)」を分火された際も、慈覚大師円仁の由緒を共有する月蔵坊が、取次や指南を担当し、この事業に密接に関係しています。
当時の寺院や、それらを支える人材を輩出した京の貴族社会でも、由緒、歴史、格式を重んじる風潮があったようです。このことは不動院も天文二四年頃には、慈覚大師円仁との由緒、歴史、格式を備えた寺院の一つとみなされており、それにより月蔵坊が不動院のために万難を排して働いてくれたのではないか、との推測もなされています。
後奈良天皇より綸旨(りんじ)をたまわり、「常州不動院」の名を天下に知らしめた、「天文の絹衣相論」ですが、多くの史料が失われ、今日ではその全体像を知ることが困難になっていますが、この時代に不動院が確固たる「力」を有していた、紛れもない証拠と考えられています。 -
2022.7.1伊勢台と不動院のむかしのこと
不動院は、伊勢台(いせのだい)と呼ばれる台地の上にあり、ここには明治維新まで、その名の由来となった伊勢の神を祀る神明神社(祭神天照大御神)なども祀られていました。
不動院のある信太庄下条(しだのしょう・しもじょう)には、稲敷郡美浦村の大宮神社など、古代から伊勢の神を祀ると伝えられるお社があります。
伊勢神道とも関わりの深い北畠親房(きたばたけ・ちかふさ)が、南北朝時代の争乱で東条庄神宮寺城や同阿波崎城を転戦した頃には、この辺りにも伊勢の神を祀る人々が多く居たのかもしれません。
江戸崎の伊勢台周辺は古くからの要衝の地だったと思われ、長い時間をかけて、いくつかの信仰を育んできたと思われます。
しかし、現在の不動院には、古代にさかのぼるような過去の仏教遺物が残されておらず、過去にどのような信仰が存在し、誰がそれらを守っていたのか、そういったことが見えなくなっています。
けれども、現在の不動院の在り方は、明治期の廃仏毀釈後の姿であり、失われたものがあまりに大きく、不動院がそれまで積み上げてきた檀林(だんりん。仏教の学問所)としての寺宝や文書記録、不動院周辺に連綿と続いていた地域の信仰が、少しずつ消えていって、今日では分からなくなっているのです。
古い時代の不動院のことを考える時、私達は眼前の景観やわずかに残された信仰の痕跡を頼りに、目に見えない往古の不動院の姿に思いを巡らせる必要があるのです。 -
2022.6.28はじめに
医王山不動院東光寺(いおうざん・ふどういん・とうこうじ)は、茨城県稲敷市江戸崎甲の高台、はるかに小野川が霞ヶ浦にそそぐ、地元で榎ヶ浦(えのきがうら)と呼ばれた入り江を見下ろす景勝の地にあり、「不動院」の名で親しまれています。
寺伝では、嘉祥元年(848)に慈覚大師円仁(じかくだいし・えんにん)により開かれたとされています。
不動院には、文明二年(1470)、比叡山無動寺(ひえいざん・むどうじ)の僧、幸誉法印(こうよ・ほういん)が戦乱を逃れて、無動寺開山僧の相応(そうおう)や慈覚大師円仁に縁のある不動明王を当地にお祀りし、ご開山となられたとする記録もありますので、文明年間のそれは中興開山のことかもしれません。
一世幸誉、二世幸儀(こうぎ)、三世幸淳(こうじゅん)、四世幸憲(こうけん)と、四代にわたり「幸」の一字を頂く僧侶が、不動院の住持(住職)となっていることが知られています。
永正七年(1510)三月二三日、「江戸崎不動院」のご隠居だった恵淳(えじゅん)法印が、『被接義見聞』という書物を書き写しています。ですから不動院は、遅くともこの頃までには、江戸崎にあったといえるでしょうし、その後も経典の書写がおこなわれていることから、不動院が談義所(だんぎしょ。仏教の学問所)の一つだったと推測されています。
不動院が、戦国時代の終わり頃、江戸崎城主の土岐治英(とき・はるふさ)の外護(げご)を受けていたことは、すでにお話ししました。戦国時代の寺院は、支援してくれる領主と運命を共にすることもありました。
天正一八年(1590)、豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)は小田原の北条氏を攻めますが、この時、江戸崎土岐氏は治英の息子の治綱(はるつな)の代になっていましたが、小田原北条氏に味方したことから、江戸崎城も攻撃されることになりました。
『臼田文書』にある「臼田左衛門尉覚書(うすださえもんのじょう・おぼえがき)」という古文書には、「同五月十九日ニ江戸崎ハ神の覚助のりこミ、不動院江陣とり、同廿日にハ者や要害のりこミ、土岐殿(治綱)をハ高田須(高田須賀御城)江御のけなされ候」とみえて、五月一九日に江戸崎に神野覚助(じんの・かくすけ)という武将が進軍し、まず最初に不動院を奪取して布陣します。
ここには巨大なお堂もあり、軍事的にも細長い舌状台地の先端にある江戸崎城の背後を守る「後詰め」の位置にありました。もちろん、不動院では、江戸崎土岐氏の戦勝も祈っていたことでしょう。
「天文の絹衣相論」で後奈良天皇よりたまわった綸旨(りんじ)や、学問所としての不動院に備えられた寺宝や財産も多数あったと考えられますから、攻める側にはその中に「どうしても欲しいもの」があったのかもしれません。
不動院が奪われた翌日には、神野覚助が江戸崎城にのり込み土岐治綱を捕らえ、高田須の御城(おんじょう)に閉じ込めています。
江戸崎土岐氏の没落と共に、不動院もこの後、厳しい時代を迎えることになります。
photo:臼田文書(折帖)第21号「関東管領家上杉憲実奉行人奉書」